氷高颯矢
『霊水エクリタシア』は朝摘みの薔薇の蕾をアルコールに浸し、1晩月光の下に曝し、煮詰めてアルコールを飛ばしたモノを粉末にし、蒸留水にエメラルドと共に入れておく。ただし、これを行えるのは神職を目指す者だけである。
フィスはレポートと過去の記憶を元に『霊水エクリタシア』を造ってみる事にした。
(出かけている間にセイフォンが目を覚ますだろうから…)
朝食の用意をしておく。サンドイッチを1切れとヨーグルトにブルーベリー。セイフォンの朝食はいつもこんなものだ。最初は何も口にしなかったので話を訊いてみると朝食を食べる習慣がないのだと言う。
『食事は三食、規則正しく食べる!これが常識です!』
そう言って説得して、少しでも良いから何か食べる様にさせた。徐々に量を増やして、セイフォンにマトモな食事をさせようと、フィスは心に決めたのであった。
自分も食事を済まして、静かに部屋を出る。部屋の扉の前でフィスは銀砂をサラサラと一文字を作るように撒くと、そこに聖水を数滴、振り掛ける。
「銀の砂は聖なる血を持って鎖と成り、月の輝きをここに留める。其は境界なり、其は契約の印なり。夜は未だに明ける事はない…≪結≫!」
フィスが呪文を唱えると、銀砂が一瞬だけ輝いた。
(…これで誰も外からは侵入できないはずだ)
フィスが使った呪文は聖域を作り出す結界術の一つ。実際に魔法を習うのは3年生からなのだが、フィスは幸い独学でいくつかの魔法を習得していた。元・雪組の生徒はこっそり勉強するタイプが多い。ミハトやシャカーラもこっそり魔法を習得しているのだが、それを表立って使ったりはしない。自分の力を誇示するのは己を過信する者と同義だ。
セントゥル学園の学内にはバラ園がある。薬草園に隣接していて、その扉には鍵が掛かっている。バラは魔法を使う者には重要なアイテムの一つなのだ。校門で守衛に声をかけて中に入れてもらう。時間外に学内へ出入りするには許可が必要なのだ。守衛にバラ園の鍵を借りて、フィスは誰もいない校内を颯爽と歩いた。少しひんやりとした空気が触れるが、それはとても心地よかった。バラ園に入るとむせ返るようなバラの甘い香りに酔いそうになる。
(そんなに嫌いな香りじゃないんだが…)
フィスはバラを選ぶ。まだ咲き初めの蕾であって、朝露の残るもの、それから、色は――白だ。
セイフォンが目を覚ますと、既にフィスの姿はなかった。ぼんやりしながらも起き上がって、ノロノロと服を着替え始めた。本当は着慣れているルベリアの伝統的な服装である袍を着たかったのだが、一人では着れないので簡単な平服を着る事にした。実を言うと、こちらの方が動きやすい為、演習中はこちらの方が都合がよかったのだ。(後でフィスに衣装の選択を褒められた。)
共用スペースにあるテーブルの上に朝食が用意されていた。セイフォンはお茶の準備をすると、席について、行儀良く手を合わせた。
「いただきます」
セイフォンの飲んでいるのはジャスミンティーだ。それにミルクを入れて飲んでいる。フィスの用意してくれた朝食を完食すると、セイフォンは器を備え付けの簡易キッチンの流しに持って行った。セイフォンの片付けはここまでだ。(本当は洗い物もさせるつもりだったのだが、1日目に皿を割られまくったのでフィスが音を上げた。)
「よし、カンペキだ」
セイフォンは部屋に戻ると黒い皮の表紙をした本を大事そうに抱えて出て来た。
「そろそろ約束の刻限だな」
セイフォンは部屋を出て、覚えたばかりの道を辿りながら待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所にはコーネリアが既にいた。
「セイフォン、おはよ」
「ん…おはよう、コーネリア」
コーネリアはリズリーは準備に時間が掛かっているらしく、もう少しここで待っていようとセイフォンに言った。
「セイフォン…リズリー待ってる間、髪の毛なんとかしてあげようか?」
セイフォンは長い髪を結ばず、そのままにしている。これでは動きづらいだろう。
「そうか?じゃあ、頼む」
コーネリアはベンチに座らせ、自分はその背後に回った。櫛と髪を結ぶ紐を取り出すと、セイフォンの髪を梳かし始めた。
「セイフォンの髪、綺麗だね〜」
「そうか?私はお前の髪の方が綺麗だと思うぞ?光の様に綺麗な色だ」
急にセイフォンがくるりと振り返り、そう言って微笑むので、コーネリアは真っ赤になりながら手にしていた櫛と髪の房を手放してしまった。
「もう、急に振り返らないで…落としちゃったじゃないですか。ちゃんと、じっとしててください」
「わかった」
今度こそ大人しく髪を結わせる。
「できた!」
コーネリアの会心のヘアーアレンジは明らかに女の子用の結い方だった。だが、セイフォンは別段気にしていないようだ。
「すっきりしていて良いな」
「うん、すっごく似合ってるよ♪」
そこにリズリーが遅れてすまないと言いながらやってきた。
「では行こうか」
バスケットを持ったコーネリア、リュックを背負ったリズリーに対して、セイフォンの荷物は本が1冊だけだった。
「お前の荷物はそれだけか?」
「そうだが?」
キッパリと言い切ったセイフォンにリズリーは呆気に取られる。だが、リズリーはその本がただの本ではない事に気が付いた。
「それ…何の本だ?魔力を感じるが…」
「あぁ、これは『白紙の書』という。持ち主の知りたい情報を教えてくれるなかなか賢いやつだ」
つまり、普通には何も書かれていない白紙の本なのだが、持ち主が魔力を込めると、知りたい情報が浮かび上がってくるという魔法の掛かった本なのだ。
「この学園に来るまで私はこの本で全てを学んできた。必ず役に立つ」
セイフォンはにっこりと自信ありげに笑う。リズリーはため息をついた。
「――それで、何か策はあるのか?」
「勿論だ。この本によると、『ファランシーの角笛』は小妖精を呼び出す道具だと書いてあった。リズリー、そなたは『アウローラの雫』は『森のどこかで見付かるはずだ』と言った。そうだろう?」
「え…ええ」
リズリーは頷いた。
「森の事は森に住む者に訊くのが一番だと私は思うのだが、どうだ?」
「そっか!妖精さんに訊けば良いんだ!」
「だが…小妖精は警戒心も強く、悪戯好きで人を欺く事に長けている。素直に協力してくれるかどうか――」
消極的なリズリーに対してセイフォンとコーネリアはすっかり乗り気だった。
「大丈夫だ、リズリー。私が頼むのだ。妖精もイヤとは言うまい」
「凄い自信だな…」
セイフォンを見ていると、リズリーは、何でも真面目に考えすぎている自分が可笑しくなってきた。何でも引き算で考える癖がついていたようだった。
「じゃあ、角笛吹くよ〜」
――プォ〜ッ。
間延びしたような音が鈍く響く。すると、森の方からふわりと光の珠が飛んできた。ゆらゆらと揺れながら踊るようにやって来る。
「妖精さんだ〜!」
コーネリアが感激したような声を上げる。
「よし、では話しかけてみよう」
「あっ…」
リズリーが止める間もなくセイフォンは妖精の傍に近付いた。
「私はセイフォン=ルヴィオールという。小妖精よ、そなたの名前を教えてはもらえないか?」
淡い光が点滅する。
「――そうか、『カペラ』というのだな。ではカペラ、もし知っているなら私に『アウローラの雫』のある場所を教えて欲しいのだ」
(会話…成立してるの?)
興味津々なコーネリアと心配そうなリズリーが見守る。
「――それはダメか?森の宝だから教えられないか?」
「でも、教えてくれなきゃ、わたしたちの課題が進まないの…お願い妖精さん、教えて?」
コーネリアも頼む。
「よし、話し合いは決裂したので実力行使に出させてもらう」
セイフォンは妖精をくすぐる様に指先をあそばせると、そっと、甘やかな声で囁いた。
「私を…私の望む場所へと導いておくれ…」
すると、小妖精は激しく点滅しながらふわふわと、まるで酔っ払ったかのようにゆっくりと無軌道に揺れながら飛んでいく。
「案内してくれるそうだ」
セイフォンは元の調子で無邪気に微笑う。すぐ傍にいたコーネリアは先程のセイフォンの姿を見て、訳も解らず紅潮する頬と、急速に跳ねあがった体温、そして弾けてしまいそうな自らの胸の鼓動を感じて混乱に陥っていた。
(何?どうしちゃったの?わかんないよぉ…泣きそう…)
「ん?どうした?」
「…うっ、わ、わかんない。わかんないけど…ダメ、なの」
コーネリアは俯いて手でセイフォンを押しやるようにして遠ざかった。一方、少し離れた場所にいたリズリーの頬にも朱が走っていた。だが、こちらはそれ程うろたえていない。
「セイフォン…君、もしや魅了体質なのか?」
「そうだが?」
「…そうか。コーネリア…こっちへ」
リズリーはコーネリアを手招きする。
「リズ、リー?」
「真白き空より降る花はやがては消え行く運命(さだめ)なり、降り積もり、行く手を塞ぐとも、全て儚く溶け行くものなり」
コーネリアに手をかざし、呪文を唱える。すると、コーネリアは身体に新鮮な空気が入り込んだのが判った。
「どう?落ち着いたかな?」
コーネリアは目をパチクリさせた。
「今のは『障害解除』の魔法の一つ。精神に働きかける魔法ね」
「リズリー、そなた魔法が使えるのだな」
「…まぁ、一通りの基本はね」
「すごーい!」
2人は感心したが、リズリーの表情は冴えない。
「そんな…大げさなものじゃないんだけどね。それより、小妖精だ!見失わないうちに追いかけないと!」
「よし、行くぞ」
「置いて行かないでぇ〜!」
3人は小妖精を追いかけて森へと向かった。
その日、セイフォンが戻ったのは夜になってからだった。
「只今戻ったぞ」
「お帰りなさいセイフォン」
セイフォンが戻るとフィスが迎えてくれた。フィスはテーブルで紅茶を飲んでいて、セイフォンもフィスの向かいの席に座る。
「食事…どうします?」
「フィスは?」
「私はもう済ませましたよ。貴方の帰りはいつになるか分かりませんし、宛ても無くただ待つのは馬鹿らしいでしょう?」
「そうか…」
セイフォンはテーブルに突っ伏した。
「お行儀が悪いですよ、セイフォン」
「う〜」
「食堂に行かれますか?それとも、簡単なもので良ければ何か作ってあげましょうか?」
「本当か?」
パッとセイフォンが顔を上げる。
「今日は朝からずっとフィスと会わなかったからな。私は正直少し寂しかったのだ」
照れくさそうな表情をするセイフォン。
「だから、今からはフィスと過ごすぞ!」
フィスは彼らしくなく、ガタッと音を立てて立ちあがった。そして、くるりと反転すると簡易キッチンに向かった。
「…こんな不意打ちは反則だ」
ボソッと呟いた言葉はセイフォンには届かなかった。セイフォンは大人しく座って食事が出来上がるのを待っていた。
フィスが作ってくれたのはプレーンオムレツにグリーンサラダ、それにコンソメスープとライ麦のパンを添えた。
「いただきます」
セイフォンは行儀良く手を合わせ、にこにこしながら食べる。
「フィスの作る料理はどれも初めて食べるものばかりだが、どれも美味しいな。こんな風に温かい食事が美味だという事を、私はこの学園に来るまで知らなかったんだから、随分と損をしたような気がする」
(まぁ、当然か…セイフォンの出自は詳しくは聞いていないが、恐らくルベリアでもかなりの大貴族に違いない。そんな暮らしでは温かい食事に縁が無くて当たり前だよな…)
フィスの家もサフェイロでは貴族階級に位置するのだが、政治が宗教化した国では家柄よりも信仰が重要なのだ。だから、高位を占める神官達の方がよっぽど優雅な暮らし振りなのだった。
「御馳走様でした」
やがて、ペロリと食事を平らげたセイフォンは食器を片付け、再び元の席に着いた。
「フィス、私の組は今日で2つの課題をクリアーしたぞ」
「えっ?」
「凄いだろう?リズリーという女子はとても優秀でな。難しい魔法を使うのだ」
「リズリー…」
「そう。スライムを凝固させたり、転移させたり。なかなか凄いものを見たぞ」
感心しているセイフォン。だが、フィスは驚きを隠せなかった。
(空間魔法だと?この時期に?リズリーという女、ただの編入生じゃないな…)
もしかしたら名のある魔法使いの弟子なのかもしれないとフィスは思った。
「フィス?どうした?難しい顔をして…」
「あ、いえ。それより、セイフォン。『ノアルージュ』というバラを知っているか?ルベリアに生息すると書いてあったんだが…」
「確かに、ノアルージュはルベリアに生息する黒バラだ。あれは栽培方法が特殊でな、しかも栽培するには政府の許可が要るのだ」
「そう…今まで見掛けた事がないのはそのせいなんだな」
気が付くとセイフォンがフィスの隣に立っていた。袖口を引っ張られる。
「行こう、フィス」
「…はい?」
「ノアルージュが欲しいのだろう?」
「えっ?」
「秘密が守れるなら…お前にノアルージュをやろう」
セイフォンの言葉は提案だが、既にそれは決定事項だ。フィスが秘密を守ってくれると信じている証拠だった。
「余り遅くに訪ねては失礼だからな…」
セイフォンに連れられて向かったのは生徒達の住む寮とは離れた場所にある職員の住居がある場所だった。その中で、石造りのシンプルな家が着いた目的地だった。
「失礼します」
ノックをする。
「誰だ?」
その家の住人は女性だった。
「セイフォンです」
「――セイフォン?」
ギィと音を軋ませながら開いた扉。現れたのは艶やかな黒髪の美女。
「夜分に済みません姉上」
「姉上…?!」
フィスは驚いた。それと同時に納得もした。
「オフェリア…先生」
「セイフォン、余計な荷物を連れてきたな」
「姉上、違うのです。フィスは私の同室。誓って秘密は洩らしません。それゆえ、どうか彼にノアルージュを分けてあげてくれませんか?」
「ノアルージュを?」
「ええ」
オフェリアは手招きでもって2人を部屋に入れた。オフェリアはフィスだけ付いて来る様に言って、階段を降りた。半地下になった部屋から続く扉を開けると、吹き抜けになった坪庭があった。そこに咲いていたのは黒いバラ。ノアルージュだ。
「好きなだけ持って行くが良い」
「…こんな風に、簡単に課題の品を手に入れて良いのでしょうか?」
フィスは余りに事が上手く運びすぎた所為でここに来て躊躇した。
「構わん。アイテム探しに人脈を使うのは道理だ。それを後ろめたく思う必要はない」
「はい」
フィスは小さな花束ができるくらいのノアルージュを持って帰る事にした。
「ノアルージュの効能を教えてやろうか?」
オフェリアは妖艶な笑みを浮かべた。
「ノアルージュは我々の持つ他者を魅了する能力を打ち消す効果があるのだ」
「えっ?」
「理性が尽きるようならば、また来い。遠慮無く分けてやろう」
意地の悪い笑顔だった。フィスに対して挑発している様だった。
「私を見くびらないで頂きたい!ノアルージュ、今回はありがたく頂戴します!失礼!」
フィスはそれでも礼をして、入り口で待っていたセイフォンを連れてオフェリアの元を後にした。
「フィス!待ってくれ!…わっ!」
振り返る事無く早歩きをするフィスの速度に追いつこうと急ぐセイフォンの声にハッとしてフィスは立ち止まった。そして、急に追いかけていた対象が止まってしまった為、セイフォンはフィスの背中にぶつかってしまった。
「急に止まると危ないぞ、フィス」
「…あ、す、すいません」
「…もしや、姉上が失礼な事を言ったのではないか?」
ドキッとする。だが、フィスは表情を和らげた。
「いいえ。ただ、考え事をしていたのです。つい考えに耽ってしまって」
「そうか。それなら良いのだが…」
セイフォンはホッとした様だった。
「…あまり、似ていませんね」
「えっ?」
「確かに顔の造りや雰囲気は似てる部分もありますが、貴方とはタイプが全然違う」
「そ、そうなのか?」
オフェリアにはどこか暗い影がある。それは彼女が世にも珍しい死体使い(ネクロマンサー)だからだろうか?
「確かに美人ですけど、貴方の方が断然可愛い!」
ピシャリと言い放った。
「え…?可愛い?」
フィスはうっかり口走った己のセリフに驚いていた。一方、言われた方のセイフォンは大きな目をパチクリさせながら訳がわからないといった表情をする。
(これじゃ、挑発に乗せられたようなものじゃないか…)
フィスは己の未熟さを恥じた。これからは今以上に理性的に振る舞わねばと心に誓った。
第3話です。今回はちょっとセイフォンを男らしく書いたつもりです。
フィスがまた問題発言しちゃってるけど、まぁ良いか。